自然はお構いなく、春爛漫から百花繚乱ヘ

平時であれば、春眠暁を覚えず等と呑気なことを言って、のたりのたりと春を楽しみたいところだが、今年もコロナ禍で外出すら儘ならない状況になっている。花と言えば季語でもある桜を思い浮かべるが、春爛漫は桜だけではない。開花前後には、確実に季節が進み、いつの間にか、ひっそりと又華やかに咲いている花があるが、こんな時期なので、つい見落としがちである。何もない処で楽しみがないと嘆く向きもあるが、近場でも目を転じれば、お寺の境内で、てんこ盛りの白木蓮が、凛とした存在感を誇示しているかのように咲いているのを見るとほっとするものだ。山沿いの、アスパラ農家を訪ねてみれば、野山は、色づき、まさに春笑うかの様、ご機嫌がいい。更に、遠近両様の、雪を抱いた飯豊山や磐梯山の山容が右に左に露わに出現し、贅沢な一時を経験し、感動が興奮に変わった。快晴で空気が澄んでいると、山等が至近距離に見える現象が起こるそうだ。もう直ぐ、さつき・つつじ等が咲き誇る、百花繚乱の明るい季節が待ち構えている。

植物も病気にかかる事もあるが、特定の品種と地域限定であり、蔓延しない様、今のところ人間が抑え込んでいる様だ。しかし他の有機物たる生命、無機物等を都合の良いように支配し、利用してきた結果、環境を激変させ、しっぺ返しを受けつつある。そんな最中、人類に未曾有の災難が降りかかってきた。世の混乱を見るにつけ、元どおりになるのかを全ての人が心配していると思う。更に懸念することがある。出来るだけ、密を避けたり、接触しない様心がけている結果、知らん顔をしても、誰にも怪しまれない。より一層人間関係が希薄になる可能性もある。世代間が断絶し、同世代でも人間関係が難しい。何とか原点に帰り、有機的な関係を回復させたい人達も多数いる。終息したとしても、人恋しさに新たな展開があるのか、又更に冷え切って、しらけていくのか、どちらに振れるのだろうか。

人間がどんなに混乱していようが、お構いなく、自然界の変わり様は、予定通りである。春は、何か希望を託せる季節である。やがて青葉が茂り、何か自信を漲らせてくれる。二度ほど訪れた、福山市の一万本の薔薇を今年は見ることができるだろうか。梅雨の中休みを経て、草いきれと怒髪天を衝く猛暑さえ、何故か懐かしい。エネルギーを使い切った、穏やかな、燃える様な、一抹の寂しさを漂わせる、山里の饗宴を無事に見られるのだろうか。又、変わりない冬がやってくるのだろうか。

兎にも角にも、穏やかな日常が戻り、廻る季節に則って存在してる自分を忘れたくないものである。人間も、自然に順応しながら、冬には耐え忍び、蓄え、春に目覚め、百家争鳴を経て、成長期に至り、全てを消耗する夏を経て、秋に納得し反省する。そんな噛み合った日々を早く取り返したいと思う今日この頃である。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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