以前より、このワードの解釈が、気になっていたが、人により、時代により様々であり、聞き流してきた。蕎麦の旨さを語る場合、不可欠であるが、これまで、究極の蕎麦に出会うことがなく、この常識的な褒め言葉だけで、片ずけられない齟齬を感じていた。それが、すべて旨さにつながらなければ意味がないと思えるからである。蕎麦好きもいろいろで、一家言あるだろうし、蕎麦談義には、あまり加わりたくない。一般的には、作って食べる人の思い入れが強く、食べるだけで、あれこれ言うのは、後ろめたさがある。好き嫌いもあるが、旨いか否かくらいは、誰にでもわかる。しかし、食べるのを職業にしているかの如き御仁がいることも確かである。恐るべし!
先ず、「喉越しがいい」の絶対条件は、美味しくて、喉の通りがいいものに使われることが多いのだと思う。美味しくなければ、関所たる喉をスムーズ(smooth)に通過出来ない筈である。シジミの味噌汁や天然水の一部は、ごっくんと飲み込まなくても、躊躇することなく、いつのまにか通り過ぎて胃に収まる。これも、喉越しがいいと言える。蕎麦を食するとき、適度なコシと多少の粘りを意識しながら咀嚼し、唾液も出て、舌の味蕾で旨味を味わう一連の過程がなければ、本来、喉越しがいいには繋がらないと思う。しかし、一般的には、大まかで、蕎麦通、酒飲みの間では、喉越しがいいものとして、蕎麦は、代名詞みたいになっている。
いわゆる「コシ」についても様々のものがある。うどん、ソーメン、ラーメン、パスタ(pasta)、ピザ(pizza)にも使うが、粉物のお好み焼き等もコシがないと美味しくない。質の良い蕎麦の実を外皮以外の薄皮まで全量ひき、つなぎを加え、混ぜたり、捏ねたり、打ったりしながら、力加減の精度と頻度によっても、ある程度コシが決まる。更に、打ち上がったものを、適当な幅に切り分け、冷蔵庫に一時的に入れ、茹でる温度、時間を測り、茹で上がった蕎麦の水切りをし、冷水でさっと洗い、再度水切りを経て、店独自のタレを伴い、ハイ!お待ち!至福の時間が訪れるのである。
食べ物、特に蕎麦についての好みは、いろいろ。プロもしくは、その道に詳しい人は、譲れない信念みたいなものがあり、妥協しないことが多い。蕎麦についての講釈を語り、種々のこだわり、時には、パーフォマンス(performance)もある。私は、ただ、素材のよさが生かされ、適度なコシと粘り(モッチリとした食感)があり、最大限の旨味を感じられる、それこそ喉越しのいい蕎麦を食べたいと思い、信州などを中心に、東西にわたり訪ねてみたが、究極の蕎麦は、 見つからなかった。
30数年前、福島県会津美里町の蕎麦処「梅安」で本当の蕎麦?を知った。今まで普通に食べていた、そば屋さんののソバは、他の食事に飽きたり、食欲のない時に食しているに過ぎないことがわかった。この蕎麦(もしくは、これを超える蕎麦)を他所でも食べられると思っていたが、先代の店主には「誰にでも出来るが、誰も当たり前のことをやらない。絶対に余所では食べられない」と豪語された。誰に教わることなく、子供の頃、食べていた蕎麦を再現したに過ぎないと話してはいたが、今は、2代目、働き盛りの鈴木さんが、気負いもなく、淡々と匠の技を駆使し、味を繋いでいる。何でこの蕎麦を超える蕎麦が見つからないのか、未だに不思議に思うと同時に、早くこの蕎麦に出会って感謝している。
これまで450回以上、この手打ち二八蕎麦を食べる機会に恵まれたが、3〜4度程を除いて、いつも、同じものが食べられる。その度にコレコレと思い、挨拶をするかのよう。今日も又、ほどよいコシと粘りを備えた蕎麦の滋味を惜しむように軽く咀嚼し、いつのまにか喉を通りすぎる至福の時間を過ごせることに、謙虚な気持ちにもなれる。
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