「男らしさ・女らしさ」

私が、二十代、会社勤めをしていた頃、十才位年上の営業仲間から「帰宅がどんなに遅くなっても、妻が夕食を食べずに、寝ないで待っているので、俺は、家でしか食事をしない」等、何度も自慢げに聞かされていた。羨ましく思ったにも関わらず、その道理のなさに呆れ、腹が立ったが、何も言わなかった。更に遡って、中学のクラスに、一部の女子生徒と交流を持ち、伸びやかなソプラノ調で、渡り歩いている男子生徒がいた。何とも不思議な空間に思われたが、虐め問題は発生していなかったと記憶している。

1945年、太平洋戦争の敗戦以降、民主主義の世になったが、戦前、戦中、自分を含む戦後世代の一部と団塊の世代も、時代錯誤の古い考え方を引きずってきた。特に、男らしさ・女らしさの概念は、生活、仕事に直結するだけに、時代を生きた人達の価値観と相俟って、完全に払拭できるものではない。「何事にも、物怖じしない堂々とした言動」「細かいことを気にしない、おおらかさ」「後輩に対する面倒見がよく、責任逃れをしない」等が、男らしさの良き例である。封建時代や戦前の名残りとしては、「男性を常に女性より上位に見てる」「稼ぎ手が中心になり、家族を養うので、縦社会になる」「仕事が錦の御旗で、何でも犠牲にできると思っている」「時には、パワハラ、モラハラ、セクハラを仕掛けることがある」等。女らしさとしては、「控えめで、出しゃばらず、細やかな気遣いができ、優しさもあり、人に尽くす」「子育てや家事に励み、家を守り、貞淑であること」「嫁いでは、夫、姑、姑に仕え、老いては子に従う」等の考え方が温存されてきた。

日本社会でも、女性の職場進出を徐々に受け入れたが、重要な仕事は、男性が担い、女性ならではの職場以外では、お手伝い的な立場やお飾りの様な職責に甘んじてきた。現在、職場や家庭も以前より男女のあり方が、かなり改善されてきた。それでも、二〜三十代を中心に数多くの女性が、女性の地位向上、自立、男女同権・平等を主張しているが、先進国では、とうに実現している。男性は、女性の家事労働(掃除、洗濯、食事、子育等)を労働賃金に換算すれば、他人に支払える額でないのを十分認識している筈なのに、「俺が稼いでるから食べていける」的な態度を、それとなく誇示することがある。むしろ支えてくれるから、安心して働けるくらいの感謝の気持ちがなければならないと思う。又、この世に生を得てから、、後天的に性差に違和感を感じ、自分本来の属性としての権利や尊厳を主張する人達や何らかの虐めを受けている人達がカミングアウトし、その後、活躍している姿を見ると快哉を叫びたくなる。すべての人が、本来の自分として生きるのが望ましい。しかしながら問題は、大多数の男性が、自分は、変わりたくないし、女性にも変わって欲しくないと思っていること。大半の女性は、今風でない固定観念に囚われた自分自身とおさらばしたいし、男性が変わって欲しいと思っていることだ。

現代社会においては、基本的に、人間として備えるべき性向が必要であり、その上で、男らしさ、女らしさが求められる。もはや職場や家庭で独りよがりでは、相手にされないし、「黙って俺についてこい」では通用しない。「ハキハキ自分の意見を言う」は、「ズケズケものを言う」や「出しゃばってものを言う」こととは違う。「思いやり・優しさ・おおらかさ」は、すべての人に対する思いで、自分に向くと、とんでもないナルシストになる。育児、家事にいたっては、どちらが向いている、いないではなく、どちらが出来るか、するかだけの問題なのだと思う。勿論、話し合いによって、専業主婦(主夫)がいてもいい。諸々の課題は、何れも男女等が、認識していなくてはならないことである。その上で、男らしさ女らしさ等は、個人個人がそれぞれ、どう感じるかではないだろうか。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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