これまでの人生で、囚われてきた課題の一つが話し方と聴き方のバランスである。幼い頃から自我の目覚めが遅く、自己表現が出来なかった。人に対し劣等感を持っていたのだが、自尊心も捨てきれず、「沈黙は金」を信じ、今に見ろの思いが横溢していた。しかしその為の根性、努力、ノウハウもなく時を費やしたに過ぎなかった。寡黙であり、人と話をすると彼我の差を意識し、ストレスを感じ、静かな環境を求め、一人になるとホッとしたものだった。相手に合槌を打ったり、程よく尋ねる等し、聞き上手を装っていたに過ぎなかったのだろう。博識で自主性があり、話し上手で自信満々、饒舌な御仁の話し相手になり、勉強にもなったが、物おじする事なく、自分でもすらすらと喋ってみたい欲求が常にあった。二十代前半から、生活の為、環境を変え、営業の世界に飛び込んだ。否応なく話さなければならない世界なのだが、やはり話を聞く事に終始した。辞去する頃にお客さんが呆れて、何しに来たんだと言う様な顔をされたこともあった。それでもオファーを頂くことがあり、種々の営業スタイルがあり、自分みたいな人間でも生きていける世間は広いと思ったものだった。
営業に慣れ、一端、やれるかなと思い、独立する事になる。今度は、勤めている時と勝手が違い、より自主性も必要なのだが、営業スタイルを以前と同様踏襲し続けた。そのうち、営業慣れし、内容がないまま当方のペースで話すことも出来たが、今度は逆に、口の重いお客様に困惑する事になる。中には、自分のことは、シャットアウトするが、当方の業界の話等に異常な興味を持ち、延々と話をさせられることもある。疲労困憊し、逃げたしたくもなる。気の置けない人であれば、有り難いのだが、話の次穂が見つからず、一時の緊張が生まれたり、気まずい雰囲気になるのを誰しも回避したいところだ。その為否応なく話さざるを得ないことが、間々あった。私が50代の頃、母親と長男、次男、私と高齢の叔父が会食したことがあり、話が盛り上がらず、堅苦しい雰囲気が払拭されるのを待てず、自分が対叔父の話を仕切ってしまった。多分、皆の動向を知りたかったのに申し訳ないことをしてしまった。その後、間もなく叔父が亡くなったのだが、あの時皆とお話しをしながら、別れの挨拶に来たのに、空気を読めなかった自分の愚かさにあきれ、恥ずかしい思いを引きずってきた。それに懲りず、以後にも、一年位、循環器、呼吸器の病で、闘病し、入退院をくり返した事があったが、退院後、鬱憤を晴らすかの様に、面白くもない、病院での状況、自分を取り巻く人間関係等を食事、お茶を飲みながら、姪に長時間、一方的に話したことがあった。以来、暑中見舞い、クリスマスカード、年賀状は来るのだが、メールや電話など連絡は取れていない。多分、あの寡黙な叔父が、時を経て、突然お喋りになったので、辟易した事だろう。お互いに時を取り戻す様に、お話しができると思って、忙しい最中、時間を取ってくれたのに、又も自己中の話をしてしまった。その頃、伊藤さんは、話好きだねと言われる始末。心外であり、打ち消すのに、躍起になったものだ。今は、二つ上の兄、八つ上の姉とは、聞き役に徹していた昔と違い、話をオーバーラップさせながら、丁々発止で話している。しかし他の人と話をする場合は、自重して、話し手、聞き手の事を配慮しなくてはいけないのだと思う。それが、年の功なのだろう。
土曜日の朝七時半からのTBS系の「サワコの朝」を時々見ているが、ある時、対談の相手の男性が他の男性インタビュアーの質問には、ろくに答えていなかったが、阿川さんには、乗せられ、気持ちよく話していたので、改めて彼女の聴く力の実力のほどを思い知らされた。又、TV朝日系列の「徹子の部屋」に出演した綾小路きみまろさんが、「黒柳徹子特集」で彼女には、適当に答える等できず、本当のことを話さざるを得ないと語っていた。対談相手のことを、スタッフの力を借りるとはいえ、手抜きをせずに、全力で調べるそうだ。話す事と聴く事が一体になった彼女の凄まじい執念が、出演者に本音を語らせるのだと思う。
先頃、ハーバード大学のデビッド・A・シンクレア教授が、著書とインタビューで「老いは病気であるから治癒できる」との従来から言われている説を改めて強調している。生物学的に、人間の寿命は、120歳ほどだそうが、そこまで行かずに、老いを含めた様々の病気で命を落とす人が大多数である。しかし、視点を変える事によって、惨めっぽいアンチエイジングではなく、病を治す感覚で、立ち向かえれば、もっと積極的に、生を肯定して生きられるのではないだろうか。未だ迷いから覚めやらず、達成感の乏しい自分としては、せめて、課題の一つである、一方的に話したり、聞いたりすることなく、話し方と聴き方のバランスを取り、人に不快な思いをさせぬ様にし、自他共に穏やかで、いい時間を過ごせるよう、努めたい。
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