差別、競争社会は1952年(昭和27年)頃には始まっていた?

私は、東京都目黒区の小学校に馴染めず、つらい想いをしていたが、翌年、品川区の小学校に転校して来た。高齢の先生は、何一つ取り柄がないと思われた、自分の長所らしきところをなんとか発見し、通信簿に、心に秘めたものがあり、それを発展させれば、この先楽しみである旨を書いてくれた。この先生のもと、頑張ろうと思った矢先、1952年(昭和27年) 五年生の二学期に、担任が若い男性の先生に変わった。それから、修正出来ないまま、黒歴史が始まった。区立の学校でありながら、50数人の生徒を出来る子A、普通の子B, 出来ない子Cの三つのグループに分けて、同じ教室でそれぞれ別の勉強をさせられた。中には、東大、私立等の名門校を目指す者がいて、どこの中学に進学するかも話題になっていた。自分が何者か、何を目指すのかもわからないのに、既に、差別、競争社会が始まっていたのだ。私はBに入れられたが屈辱と劣等感にさいなまれ、身が縮む想いだった。自我に目覚めていれば、反骨心がバネになり、奮起し克服できたのだが、その後屈折した道を歩むことになる。

劣等感と虚栄心を持った少年は、いじけていくことになる。学校が嫌になり、風邪にかこつけて、ずる休みをしたり、近所で遊んでいると、級長が回って来て、監視しているような行動を取り、逐一報告されていたのだ。その頃は、まだ野村の性だったが、転校生で勉強が出来、体の大きい、番長みたいな同級生の態度が鼻持ちならなかった。腹に据え兼ねていたが、何も言えず悔しい想いをしていたのだが、意を決し取っ組み合いの大喧嘩をした。大騒ぎになり、教師も駆けつけ、仲裁に入り、THE END。両者傷だらけだったが、勝ち負けはつかなかった。それでも私の人気はうなぎ登り。「のんちゃん」の渾名を賜り、やたらに声をかけられることになる。しかし、自分が変わったわけでもなく、何も発信することもできなかった。その後中学に進むが、リセットもできなかったが、何故か、たまたま、二年の時、アチーブメントテストで、成績がクラスの級長より上に行き、注目されることになる。彼には、露骨に無視されたが、周りがほおっておかない。ちやほやされる始末。真面目そうに見えるだけで、個性もなく、自信のない人間はやがて、メッキがはげる。成績も落ち、高校受験にも失敗し、同級生に出会わないようにした。まさにブルーな時代に突入したのだ。その後、運良く大学に進学し、中学の時の親しくもない同級生に偶然出会った。他の大学に入学しており、へこへこされるなど、不可解で、不愉快なおもいをした。また、同じ大学で、小学校の時、Aクラスにいた男に出会った。最初は、あの時のお前がみたいな態度を取られたが、とにかく小学校卒業後、初めてのクラス会を共に企画した。17〜18人が出席したが、例の教師を始め、親しい関係でなかった者同士が親しくなれるはずがない。白けたまま散会した。後にも先にも小中学校を通じ、同級会が行われたことは、一度もなかった。

1945年(昭和20年)8月15日、日本が太平洋戦争に負け戦後が始まった。民主主義教育により、国民が、等しく教育の機会均等の恩恵を受け、上を目指すことになる。明治維新の、西洋に学び、追いつき追い越せの、いき過ぎがもたらした悲劇を反省せず、戦後またもや、国家再建の為、追いつき追い越せが始まる。一概には言えないが、都会の学校にはその使命が担わされていたのだと思う。幼少青年時代に、大人社会への嫌な縮図を嫌と言うほど見せられた。何か、突出した能力、つまり勉強ができる、スポーツが得意、他のスキルがある、身体能力が高い等がない普通の人間は見向きもされない。つまり勝ち組と負け組がはっきりして、そこには厳然たる壁があり、融和もないし、温情も介在しない、双方のグループ内でも、それぞれが分断され、孤独なバトルを強いられた。世代交代を繰り返しても、競争社会に歯止めをかけるか、協調社会を構築しなければ、何も変わらない。堂々たる人生を歩み、我が人生に悔いなしと思う人もたくさんいるであろうが、ある意味では、皆んな、満たされない想いを抱えて生きているのだと思う。こんな育ちをした人間が言う資格もないのだが、現状を見るにつけて、自分ができることは、接点を持ち、関わりを持つ人たちの輝かしい過去に光をあてたり、居心地のいい場所を作って、寛いでもらう事であろうか。時代を生きた戦士に光を!老人にエールを!若い世代を感化出来ないところまで来てしまったのだから、せめて、我々年寄り世代が、従来の関係性を改め、協調し、受け皿になるコミュニティを作ることにより、日本社会が変わっていく、きっかけになればと思う。

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