後期高齢者の鬱憤

先日、品川ナンバー(number)の車で道路に出る際、左方向前方の赤信号により、流れが止まったにも拘らず、 バイク(bike)を含め5台の車全てにスルー(through)され、入れてもらえなかった。こんな時節故、仕方がないのかもしれない。以前から、ナンバーの違いに拘らず、入れて貰えない等、運転マナー(manner)の欠如、迷惑行為等にストレスを感じている。因みに近場の3〜4百キロ以内は品川ナンバー、何千キロも走る長距離の時は、少し大きい、会津ナンバーの車を運転している。

車といえば、高齢者なので、免許更新時、道交法違反の講習等での、認知症テスト(test)がある。相変わらず、関連のない画像を見せて、記憶しているか否か、又、教官が来て、しばらく話をした後、どのくらい時間が経過しているかを尋ねられるのだが、何か意味があるのだろうか。認知能力を調べるには、もっと簡単で、適正な方法で調べられるのではないだろうか。更にどの講習でも、事故の悲惨さを認識させる映像を見せるが、どうしてその事故が起こったか、日頃運転する際、陥っている過信、運転ミス(miss)、迷惑行為等により事故が出来している事への言及や説明がない。お互いに、貴重な時間を費やしているにも関わらず、あまり役立っていないのである。路上運転講習での適正なチェック(check)は、絶対必要なことではあるが、運転時に必要な瞬時の判断・操作・技能などが備わっているかの判定が甘いようだ。備わっていなければ、時間をかけ矯正しなければならない。多少、費用がかかっても仕方がない。そのうえで、適当でないと判断すれば、免許を取り上げたらいい。免許更新時の講習や違反者講習により、優良ドライバー(driver)を世に輩出すれば、交通安全にも寄与し、ストレス社会の要因を少しでも減らす事が出来ると思う。

役場の国保係に大きな声で、「後期高齢者は、奥の何番で〜す」等と言われると、恥ずかしいやら腹が立ち、デリカシー(delicacy)のなさに抗議したくなるが、グッと我慢する。自分から後期高齢者なり、年寄りという言葉を発する場合は、自嘲的になる時、言い訳であったり、年には見えないと言われたい時等、納得して使う。他人から、あたかも固有名詞のように、括って言われたくないと思うのは、誰しも同じだと思う。この「後期高齢者」というフレーズ(phrase)の「後期」が、特に気に入らない。便宜上、うち内で使い、公衆の面前で使わない等、配慮できないだろうか。更に高齢が進み、「超後期高齢者」とでも言うのであろうか。

コロナ感染問題で思わぬ波紋も広がっている。日本中で、一丸となって戦わなくてはならないが、差別化と分断化も激化している。地方と地方、地方と都会の連携・協力により日本が成り立っているのに、東京がすべての元凶の如く扱われている。首都圏の一角である神奈川、埼玉、千葉でさえも東京の影響を受けている被害者面をしていて、見苦しい。多数の、昼間労働人口の東京流入等もあり、もはや、生活圏一体の首都圏住民である。共に手を携えて、事の解決にあたらければならないのに、いがみ合っている暇はない。これは、他の地方と東京等都会との関係も同様であり、相互に依存しあっているのに、他を排除したり知らん顔をしてはいけない。
コロナ騒ぎが起こる以前から、エチケット(etiquette)として、必要に応じ、マスクをするのが当たり前の状況でも、装着していない人がいて、不愉快極まりなかった。スーパーの生鮮食料品の前で、咳をして平気な人。店員さんも気がつかなかったり、大きな音が響いていても留意していないようだ。又本来の診療目的で専門医院を訪れる時、注意書きが掲示されているにも拘らず、マスクをしないで咳をしている人がおり、看護師さんも、注意しないし、知らん顔している事が多い。病気を治す医院で、風邪・インフルエンザ(influenza)等他の病気にかかってしまったら、本末転倒である。

先般、ノーベル(Nobel)医学賞受賞の山中伸弥教授が「人にうつさない為にマスクをするのであり、本来、防護するためのものでない」と話していた。溜飲が下がる思いがした。従来から、おかしな現象が起こっていると思っていた。コロナウイルスに感染している人たちが、闊歩して歩き?国民は、防護マスクをして大騒ぎをしている構図である。かたや、不幸、不注意により、罹患してしまった人を黴菌呼ばわりし口汚く罵ったり、バッシング(bashing)し、村八分にする。挙げ句の果ては、マスク警察等、取り締まりもして、更なるトラブル(trouble)まで引き起こしている。又、何故か、夜の街を悪者にし、問題になるや、接待を伴う夜の街と言い直したり、悪者と決めつけ、あぶり出すかのようである。更に、政府高官が、冷然と「東京問題」と括りの言葉で言い放ったのには、驚愕した。夜の街でも昼の街でも、人の行動パターン(pattern)や濃密な接点により、うつし、うつされるのである。事の本質を掴み、解決に至る最上の策を立てる事なく、悪者探し・是か非か、二者択一を迫る手法は、ある意味日本社会の病根と言えよう。これは、かつて日本が辿った、為政者にとって、統治し易い状況を作ることに繋がので、流れを打ち切りたいものだ。医療関係者のデータに基づく識見を取り入れ、具体策も必要であるが、要は、個人個人が、新たな感染源にならぬ様、自粛、自覚を促すことも大事なこと。忘れがちな、法を守り、人に優しく、親切で、礼儀正しく、控えめで、迷惑をかけないようにする日本人の美徳により、早期の終息を迎えたいものである。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

伊藤武をフォローする
雑感
シェアする
伊藤武をフォローする
いとたけのブログ

コメント