MANUAL車、AT車、自動運転のサポカー、どれを選ぶか?

我々年高齢者は、MANUAL車に始まり、AT車に乗り換え、この先があるとすれば、自動運転のサポカーに移行していくのがごく自然の流れだと思う。衰えつつある肉体と精神の機能を補佐する為には必須なものかもしれない。又、年齢に関わらず、自動運転車に乗り、必要に応じての操作を行う様になるのは世の趨勢だと思う。これまでもそうであったように、我々は常に、世の進歩・発展の波に戸惑いながらも呑み込まれてきた。その結果、多少の不都合もあったが、より便利な社会を実現してきた。又、睡眠不足・疲労・心労等によるうっかりミスが原因の事故を防ぐのに、大いに役立つことだろう。

肝心な 人間の検索 ENGINE からの指令はどうなっていくのだろう。やはり車の発展段階と同じく、自分の意思により全て行動指針を出していた時代から、便利な自動機器を利用する時代に移り、今や僅かな意思決定しか出来ない時代に突入しようとしている。好むと好まざるに関わらず、人間のやること為すこと、大半がAI等に取って代わられ、ONLY ONEとして存在感を示すのも難しくなった。人間がその便利さに甘んじて、怠惰になったような気もする。僅かな間隙をぬって、仕事であろうと遊びであろうと、夢中になれるものを見つけ追い続けられれば、人が何と言おうと本人にとって最高の人生だとおもう。そんな人を見て刺激を受けたい。

一般的に、歳を取ると一年経つのが早いと言われている。しかしここ一年は、これまでと違って特に永いような気がする。大げさに言えば、時の流れと、時が刻まれているのを実感している。何かに夢中で充実しているからでもない。強いてあげれば、主体的に動いているせいではないだろうか。各時代を何となくすり抜けてきた人間にとって、各時代で成したものが、ほとんど無いので、余勢で生きていけないのだ。そんな時代錯誤の老人は、社会からズレているので、変わり者扱いをされると思う。自分はお客様商売なので、どんな話題でも黙殺することなく、話を広げてきたつもり。しかし逆の立場でも、話題を選び相手に合わさなければならない事が多い。何か呟いたことに無反応であったり、明らかに戸惑っているかに見える場合がある。今浦島であり、もう通用しないのではないのかと、自身寂しく、悲しく思うこともある。以前病没し、心を寄せていた私の姉に「まだ生きたい」と悲痛にも漏らした兄を思う時、まだやるべきことがある。これからも年甲斐もないかもしれないが、疑問に思ったり、感じたり、考えたこと等を発し、行動していければ、生きてる意味があると確信したい。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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