それでも苦手な人がいる

私は、今に至るまで、人に合わせて生きてきたと思っている。人と人のつきあいは、どちらかが配慮したり、気持ちを運んで成り立っている部分がある。つまり無機質な人間同士では、なかなか人間関係は始まらないし、どちらかが有機的な体質の人間で、相手がこれに呼応することにより人間関係が生まれる。これは、家族、友人、知り合い、自分対お客様、自分対お店等どう変化しても、基本的に同じだ。自分が商売をしており、自分対来店されるお客様、自分対行きつけの店の視点で、考えた場合、思い通りにならないのは言うまでもないことだが、どうしても看過できないことがあり、苦手な人達がいる。通常、店は、客を選べないが、客は、店を選べるはずだが…。

先づ、自分対お客様。老若男女、様々のお客様が来店される。SMOOTHに気持ちよくお帰りいただくと、ほっとする。長時間、一方的に話をされるお客様には困惑する。聞き流せば失礼になるし、話の流れを変える為に、別の話題に入って行こうとすると不快になる方がいる。一生懸命、話を聞くので、疲労困憊の極み。他方、20年以上のつきあいで、何十回も来店され、お互いに熟知しているはずなのに、一向に話が弾まない。何か尋ねても、暖簾に腕押し。人の話、情報は知りたがるが、自分のことは、話さないし、取り付く島がない。この場合、沈黙が金ではなく地獄に等しいので、延々と自分が喋り続けることになる。頭が空っぽになったようで、喪失感と自己嫌悪に陥ることになる。

自分が小規模の店に何回か行っても、無視される場合がある。通常、二、三回同じ店に行った場合、客と認め、会釈、挨拶されるものである。何でもおいしい飲食店なのだが、何が気に入らないのか機嫌が悪いのである。意を決して、店主とは親しい間がらだと言う知人、男女二人と食事に行った。「いらしゃいませ」「ありがとうございました」と二人には言うのだが、私の存在は、黙殺、いい気持ちではない。聞くところによると、波のある難しい人だと言う。一人では、怖くて?いけない。苦手の一人なのだが、提供する食事は美味しいのである。もう一軒、夜八時までの営業で、食事を出さない飲食店なのだが、今までに5,000回以上行っている。観光客も来る店なので、一日10数万の売り上げの時もあるようだ。店主側から、一過性の客の如く、敢えて?気の無い、無機質の挨拶をされる。多分、個々の客を意識すると、人間関係ができ、何か面倒なことに巻き込まれたり、義理で物を買う羽目にになると考えているか、たかが五百円玉一個の客に過ぎないと考えているのであろう。あまりの無礼さに腹も立ち、私の方で、ORDERや勘定してくれる相手を選んでいる。しからば、こんな店に行かなければ良いのだが、喉仏に刺さった骨のようで、無視できないのだ。苦手な人達と関わりを持てば、STRESSも溜まるが、当方に原因があったり、勘違いもあるかもしれない。いい年をして 、小さな事にこだわって、なかなか快適な日常生活とはならない。自分の狭量さを恥じる気持ちもある。こんな四人を受けとめる時が来れば、好々爺になれるのであろうか。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

伊藤武をフォローする
雑感
シェアする
伊藤武をフォローする
いとたけのブログ

コメント