人は、40歳で自分の顔に責任をを持てるのだろうか?

知り合いで、それなりの女性、2〜3人に聞いてみた。「小さい頃、自分の顔に、自信を持てましたか?」答えは、躊躇することなく否であった。概ね、何か、内面の問題、境遇、環境等、多少の問題を抱えていた口ぶりであった。顔かたち、天賦の才等先天的なものと、性向、興味の対象、努力等により後天的に獲得していくものにより自信を持って生きていければ良いのだが、なかなか思うようにいかない人が大半なのではないだろうか。

翻って、幼少青年期を通じ、虚栄心は人一倍あったが、自分の顔 は勿論、他のことで、自信を持てることなど皆無であった。父親似で二重目蓋で目鼻立ちのよい、姉と二人の兄に囲まれ、凛とした母親の長所も、何故か受け継げず、阿保面で個性的でもない人間が、自信など持ちようがなかった。兄弟から、貰いっ子か拾われたかのように、からかわれたこともある。冗談だとわかってはいたが、生まれながらに、人は不平等で生まれて、生きていくのだと理解した。そんな時、“40歳になったら自分の顔に責任を持たなければならない”との言葉が耳に入った。自信とは縁のない生き方をして悩んでいるのに、更に重い命題を与えられた気がした。本当に皆がそんな事を意識して生きているのだろうか?人にも聞けず、潜在意識にはあったが、日々の生活に流されつつ無為に過ごし、40歳を超えても深く考えず、その後、時が経ち、更に20数年後に意識し始めることになる。総てにおいて、何周も遅れてしか、事を始めたり、考えることが出来ない自分に、早くから気がついてはいたし、腹立たしかった。大学に行き始めた時、7〜8年ぶりに近所に住んでいた二つ年上の男子学生に路上で出会った。中国の官能小説“金瓶梅”を読み始めていたところで、その話をすると、小学生の頃、読んだし、興味がないという。今読んでいるLEVELの高い二、三冊の本を教えられたが、話題についていけなかった。我が人生に、けじめをつける年齢で、皆が卒業したり、興味を無くしたこと、分別のある大人がしないような事をやっていたり、始めようと考えている自分に、あきれるし、今浦島かとも思う。

Lincoln大統領が人を抜擢する時、顔にこだわり、採用したとのこと。顔に、その人間の総てが凝縮しているそうだ。その時の言葉が「 人は40歳で自分の顔に責任を持たなければならない」。人の印象が決まる場合、見た目がかなり重要であり、三分の一位の比重を占めるのだろうか。しかし、話をしたり、聞いたりして、PLUS  MINUSを加味して最終的に評価をするのだと思う。最近、やっと「自分の顔に責任を持つ」の意味が、何となく理解出来るようになった。この顔を晒して生きていくことには変わらないが、自分が積み上げてきたもの、喜怒哀楽、興味があったり、考え、感じたこと等、全てが、知らず識らずに経験値として頭の中に取り込まれ、その人の顔の表情にも現れてくるのかなと思っている。どの顔であっても己に恥じない、己の欲する生き方をしていれば、年齢にかかわらず、自信を持っていいのだし、ひるむことはない。未だ何も 為していないが、気がついただけいいのかな。何周もの遅れを何時になったら取り戻せるかわからないが、今後も更なる加齢による肉体と精神の衰えに抗いながら、よろよろと遅々たる歩みを続けなければならない。社会と人に支えられながら。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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