小学校6年の時、既に三人のマドンナに囲まれて…

人間の成長過程を考えると、種々の要素が関わっていることが理解される。他の動物と違って、社会との関わり方により成長が促されることが多い。家庭環境、幼少中高大及び社会を通じて教師や上司、同僚、男女の遊び仲間や友達、それに社会情勢、社会環境等である。個人の資質、能力、性格、成長度合い等によっても違うが、どの一つがうまく噛み合わなくても、苦悩し、、人によってはハンデになり、克服に努める事になる。小学校六年の時、卒業を控え、全員が色紙に寄せ書きを記すことになった。小さな学び机の三方を、クラスのマドンナ三人に囲まれた状態で、何か気の利いたことを書くのだが、劣等感の固まりだった自分にとって、青天の霹靂であった。当然、美しく、聡明な彼ら(3人とも名前は偶然、「けいこ」だった)は、私の一挙手一投足を見ていた。皆、それぞれが、伸び伸びと書いていたり、我が物顔に書いており、僅かな書くスペースしか残っていなかった。人の股をくぐる思いで、下手な字を震えながら書いた記憶がある。勿論何を書いたかは、思い出せない。因みに、その一人と約十五年後、電車で乗り合わせ、真ん前に座っていたが声もかけられなかった。その時の表情が寂しそうで、幸せには見えなかったのが気になった。。今だったら、怖いもの知らず、物怖じしないで、誰とでも、何でも話せるのだが…。

そんな体験を経て、中学、高校とブルーな時代を過ごし、大学に進学し、トンネルを抜けるかと思ったが、自堕落に過ごしていた者が劇的に変われる訳がない。50数人のクラスで男子が五人しかおらず、またもや萎縮することになる。男子4対女子2のグループができ、楽しいキャンパスライフを謳歌するはずだった。他の三人のお目当は、華やかな美人帰国子女であったが、もう一人も決して刺身のツマではなかった。楚々として、自分を失わず、優しさのある麗人であり、医者の娘だった。彼女とは神宮の森を散策しながら話をしたこともあったが…。男子グループの一人は、ヤンキー(昔は白人でバリバリのアメリカ人の意味であった。)かぶれで、迷彩服みたいなものを着て、GIを見ているようであり、もう一人は、やたらクソ度胸と自信過剰で何でも押し通すし、他の一人は英語を事務的にペラペラと話し、今で言うITみたいであった。裕福な家庭に育ち、個性を伸ばしてきた人達。あまりにも違いがあり過ぎた。間もなく、グループから離脱する事になる。彼等とは30年後の何月何日、絶対に会う事にしようと約束したが、忘却の彼方のことになった。更に、もう一人の孤立した、地方出の学生と近ずくことになるが、長くは続かなかった。彼は、将来に希望を持っており、多分教師として、全うしたのだと思う。

その後、アルバイトが仕事になり、十二年も勤め、経済的には多いに恵まれたが、満たされない想いで悶々としていた。会社を辞め、失われた十年、一点豪華主義との決別をすることになる。これまでの、30数年間、全く無駄だったとは思わなかったが、個人で、店を持たず、画廊の営業をこなしながら、新たな関係性を築き、人間性回復に終始した。その中で、自然に身についたのが、「聞くこそものの上手なれ」である。扱っている絵画は、説明するまでなく、好きかどうかであり、セールストークも必要なかった。人は概ね、話をしたい雰囲気にされることを好み、話し出す。ある中小企業の社長が、私に、プロパンガスの未来と発展性について午後一時頃から夕方五時過ぎまで、夢中になって話をし、我にかえり、何で関係ないあなたに話をしたのだろうと不思議そうな顔をして、訪問の意図を理解し、絵の購入を決めていただいたことがあった。わからなくても、一生懸命話を聞いたし、それ相当の相槌等を打ち、話が発展したのは言うまでもない。内気な自分が解決しなければならなかったのは、女性との関係性でもあった。女性を畏怖し、畏敬し、萎縮してしまう自分が、営業しながら、無理なく話を聞き、話せるようになった。その後妻とも結婚し、人間恐怖症、女性恐怖症もほとんど無くなった。この道を歩んで、自分を矯正して来れた事に感謝している。今は、店を持ち、お客様の所に営業で出かけることは、少なくなったが、基本的に趣味のものを介在して人間同士が一定の距離感でお話をするこの環境が大好きであり、これからも自分の未熟さを陶冶してくれると信じている。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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