友達はいないが、兄姉が無二の男・女友達。それにもう一人…

自分には、友達がいない。仕事上の取引先やお客様で、親しく話をしたり、お酒を飲みながら歓談する機会はあるが、プライベートで、共に時を過ごすのは、兄、姉の二人しかいない。二歳年上の兄は、トランプの神経衰弱が得意で、私の4〜5倍のカードをゲットした。又小遣いを持っていない少年に、見た映画の一部始終を克明に、順序よく話してくれるのが楽しみであった。先日も、2歳年上の兄と、行きつけの東京大田区下丸子「コメダ珈琲」で二時間ほど話をし、別れ際にまだ幾らも話していないと不満そうに言われた。兄にはどうやら必要とされているようで、ありがたいと思う。兄も多分友達がいない。私より前途有望に見えた兄は、東京の私立名門高校?に通っていたが、二年の時、当時業病と言われた結核になり、長い闘病を経て、胃腸も患い、現在に至っている。キャリア、友達を失い、収入も少なく、苦労しているが、未だに、気概があり、将来に希望を持っているのには、励まされている。静かに見守っていきたいと思う。いつもは夢中になって、最低4時間以上ぶっ続けで話をする。互いに近況を尋ね、共に共感したり、見たり聞いたり趣味、スポーツ、芸能、社会、政治等思うことを述べあったり、時には意見の対立もあるが、棚上げする。あっという間に時が過ぎ、御開きとなる。どちらかが一方的に話をする事はない。互いの話にはよく耳を傾けるし、なんのわだかまりもなく、話ができるのは、大いにストレス解消にもなる。いつの日か、余裕のできた兄の迫真の映画説明を聞きたいし、年来の囲碁の手ほどきも受けたい。

七歳上の姉とは、接点が余りなかったが、母を亡くして以来、数年間、たまにあった時には、空白期間を埋めるかのように、時間の経つのも忘れ話している。この1月にも昼前から夜まで、二度の食事を挟んで、一日中付き合ってもらった。姉は幼、小、中、高、大のお嬢様学校の高校を卒業するや、四人の慶応ボーイの争奪戦?の末、請われて結婚した。それも亡き母の遠大な仕掛けがあったようだ。家計には四苦八苦していたが、使うべきところには、思い切って金を使う。彼らを見極める為に、ホームパーティを催した。没落家族の意地とプライドをかけて、厳かに、華やかさも演出して見事一人を選んだのだ。そんな姉は、校風に相反しゆっくり、優雅に話すどころか喋るのが得意で、立岩に水という感じで当時の私はアホで、なかなか話についていけなかった。仲よしグループの友達も5〜6人いたはずだが、今は付き合いがないようだ。ご主人を亡くし、今では母親などから受け継いだ精神的遺産に感謝し、娘と孫娘、弟二人と交流し、外部からも刺激を受け、熱く静かに暮らしている。友達のいない私が、この世に辛うじて根っこを張っていられるのは、二人の、姉、兄そして妻のお陰と思っている。

それにつけても、約四年前に亡くなった六歳上の兄が偲ばれる。やはり幼、小、中、高、大の私立の名門校に通っていたが、高校で中退し、俳優を目指すことになる。プライドが高いくせに、内気で、劣等感も強く、私と似ているところがあった。しかし極端にSHYな性格は芸能界に向かず、置いてきぼりにされる。家をでて、10数年たち、帰ってきた時には、体も弱っており、菊池寛「父帰る」ならぬ「長兄帰る」状態であった。すぐ上の兄と私が精神的に、経済的に支柱になり居場所が なかった。悶々として、 自身もなくし、人に当たったり、切れたりしたので、周囲からも相手にされなくなった。若い時に、物事を多角的に、俯瞰して見ていた、哲学的にさえ見える兄はどこへ行ってしまったのか?など思った。今考えると、そんな兄にしたのは、自分も関係していたのかもしれない。その兄がガンに侵され、だんだん弱ってきて、亡くなる何ヶ月か前、虫の知らせか突然、兄に優しくなれた。耳も聞こえにくく、これまで話し合いをすると噛み合わなかったが、相槌を打つ程度にし、話をするに任せ、一生懸命聞くようにした。なんと表情も一変し、穏やかに、嬉しそうに、懐かしむように話した。それを思い出すたび、涙がこぼれる。何故もっと早く気付かなかったのだろう。代償も大きかったが、遅ればせながら、得たものも大きかった。今更、友達もできないが、せめて人を気づつけないようにしよう。気付く人でいたい。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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