旬の食材にリーズナブルな価格と味を望むのは、無理?

先日来、夏から秋にかけての味覚、梨を食べたが、最初は、繊維が多数残り、不味いし、二度目は、味にムラがあり、三度目は、多少高いものに手を出し、満足したものの、やりきれない思いが残った。物が豊富な時代にもかかわらず、比較的安価で、当たり外れのない、旬の食材が、安直に手に入らないなんて信じられない。今や、旬の食材もブランド(brand)化しているのかもしれない。ここ何年も食べ損なっている秋刀魚も、ハズレが多くて手が出せない。八戸、焼津その他高級店まで足を伸ばす気にはならない。松茸や蟹等、いつ食べたかも思い出せない。旬の食材は、年に一二度、それぞれ、味あえれば十分。自分にとって、許せる上限価格があり、それを超えて食することは、分限を超えた驕りと思え、戒めの為、パス(pass)する。

物の価格は、市場原理で決まり、今や、多様な選択が出来て、いいと思っている人が多い。シンプルに、高い安い、旨い不味いの判断で買うだけで、概ね、食生活に支障がないのだろう。私が幼少青年時代を経て、更に十数年間、高級食材はともかく、身近に旬の食材が市場に溢れ、特に、当たり外れ等なく、価格も手頃で、毎年、季節の彩りを楽しんで来た。戦時中を含め、1945年終戦直後の、空腹で飢えていた時代を経て、何事にも国民が貪欲であったから、味覚も磨かれ、それぞれの好みが確立されたのだろう。しかも食にも拘る、私の家庭環境も幸いした。この時代を生きてきたから、今があるのだが、嘆かわしい気持ちになる。

然るに、今は、如何であろうか。豊富な食材が、いつでもどこでも揃い、価格も様々で、選択肢も多いが、当てにならない。見た目やディスプレー(display)につられ買ってみるが、がっかりすることが多い。旬の食材すら、思うようにならず、通り過ぎていく。「鰹のたたき」も、久しく食べていない。鮮度抜群の鰹のたたきに、酢醤油、玉ねぎ、紫蘇、にんにく等を入れ、頬張る。満身に旨みが伝わり、何かとモチベーションも上がった記憶が鮮明に残っている。何も「美味しんぼう」の世界の話ではない。以前は、一年を通じて、何回か、季節ごとに、旬の食材を食べ、至福の時間を持てたような気がする。今年は、食材を吟味した、自家製の冷やし中華を何度か食べられたことくらいしか季節を感じ、満足したものがない。

何故こんな事になってしまったのか。便利になった反面、失ったものや歪みも沢山ある。自由主義、民主主義、平和主義を標榜し、ある程度、規制緩和もされ、切磋琢磨のもと、競争社会になり、自己責任も強調されるようになった。自由、平等になり、多くの人、地域にその恩恵がもたらされてはいる。この国で、主に1945年以降に育ったことを感謝しつつも、政治の停滞をあるゆる所で感ぜざるを得ない。食に関しても、農林水産省が、資源枯渇、環境及び気候の変動による食材の減少等にいち早く対処しなければならないのに、対策が不十分だったと思う。又自他共に営業努力を鼓舞されるのみで、国民の大半が望む、肝心の日本の農林水産業政 の方向性が、全然見えない。何か大切なものを忘れてきたような気がする。

今でも、旬の食材等のリーズナブルな価格と味を取り戻すことが可能なのではないだろうか。食材は、ある所にはあるし、求められる人は、それ相当にいるはずだ。偏在を改め、視点を変えれば解決する場合がある。政治の要諦の一つは、その時点で、将来を見据え、最大多数の最大幸福を実現することを考えて実行することだと思う。生産者が営業努力し、商品にランク付けとも言える価格を付け、消費者が自分に見合った物を選んでいるのをただ見守っているだけでは、政治が介在しているとは言えない。流れがおかしければ行政指導する等、方向性も正して行かなければならない。高級食材はともかく、旬の食材をリーズナブルな価格と一定水準の味で提供することができれば、国民に一定の期待と安堵感を与えることができる。更に、一つ一つ、多くの人の願い、思いに応えていければ、国民に活力がでてくる。恵まれない少数者への配慮も必要だが、国民の暮らしを良くし、国を引っ張るエンジン役とも言うべき各行政機構の理念を再認識し、国民多数が希む方向にベース(base)を移せば、自ずから答えは見つかるはずだ。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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