蕎麦と酒

昨年、長いこと食欲が無く、久しぶりに、行きつけの会津美里町高田の蕎麦処「梅安」に手打ち蕎麦を食べに行った。だいたい、ものが食べられない時でも、長いものは喉の通りが良いと言われているが、他のそば、うどんでは難しかった。余分なものを注文せず、一人前だけであったが、美味しいと感じ、食欲が残っていた事に驚き、まだ、いけるのかと希望が湧いてきた。以来、通院の度に、寄る事にした。

無類の蕎麦好きの若い客が、夏場の柔らかい蕎麦より、冬場の硬いコシのある蕎麦が好みだと聞いたが、私は、季節に応じ、気温差があり、それなりにコシの違いのある蕎麦を楽しんでいる。更に、厨房に入らせて貰い、茹でたての蕎麦をそのまま食べたそうだが、店で「ハイ、お待ち!」と言われ、食べる蕎麦より、はるかに美味しく感じた由。生蕎麦は、2〜3分違っても食感が変わる程微妙なものなのだろう。又、別の客は、家で、打ち上がった蕎麦をしゃぶしゃぶの様に、必要な分だけ熱湯に潜らせ、酒を飲みながら食したとの事。何とも羨ましい限り。酒好きではないが、早速、昨年12月31日に蕎麦を届けて貰い、〆張鶴を呑みながら蕎麦をつまみに、友にし、年の総括をしながら、のんびり過ごすつもりであった。かっこつけの話としては、いいが、実際にはマッチングとタイミングがずれたのであろうか、結論が出た。自分には、適度なつまみを肴に、ちびちび飲み、最後、一気に蕎麦を食べた方が性に合っている様な気がした。つまり、美味しい蕎麦を食べるには、食感が変わらないうちに、脇目も降らず食べるしかないのだと思う。

「酒と蕎麦」一体のイメージが先行して、蕎麦を肴に呑んでいるシーンを思い浮かべることがある。映画・テレビ等で見聞きすることもあり、通に言わせれば、酒も蕎麦も手放せないそうだ。今でも、夕方5時頃には、サラリーマンと思しき御仁が三々五々、名代の蕎麦屋さんに押しかけ、席が満杯になっており、夕食の為一人で入るのが憚られたことを思い出す。
皆、当然のことながら、美味しいものを味合うより、上司、同僚、顧客、友達等とのコミュニュケーションを優先させ、飲みかつ夢中で話をしている。コロナ禍でこんな安全弁?も奪われ、心の憂さも切り替えられない人達もお気の毒である。何とか早期にこの異常事態を収束させ、穏やかな日常が戻ってくることを祈るのみである。又、どんな蕎麦の食べ方をしようと勝手なのだが、蕎麦を愛好する普通人としては、蕎麦を蔑ろにして欲しくない。本当に美味しい蕎麦は、流れや、〜でも食べるかのレベルではない、真っ当に向き合うべき高級な嗜好品なのかもしれない。自分は、どうしても食べたくなったら、狙いを定めてその為だけに行く。余計な物は口にしない。口に出したり、うなずいたりはしないが「これ!これ!この蕎麦!」と心の中で呟き、この蕎麦が食べられる事に感謝している。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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