迷子の赤トンボを 今年、初めて見た

TEA TIMEに台風一過の青空を見上げていたら、赤トンボが一匹、羽を震わせながら隣の屋根瓦にしがみついていた。何年ぶりに見たかも思い出せない。よくぞ命を繋いでくれたものだ。頑張れ!感謝!そういえば、「雀がいない、見なくなった」等、以前には、話題になったが、今は、あり過ぎて、皆、興味がない。周辺にいる、かかわりのない人がいなくなっても、誰も関心を持たなくなり、気付かれなくなるのだろうか。子供の頃、直ぐに死んでしまうのに、わくわくしながら、粘着性の鳥もちを竿につけて蝉やトンボ等を取ったり、アゲハ蝶を素手で捕まえたこともあった。身近にいる虫で、捕獲可能な、鬼ヤンマ、くまぜみ、黒アゲハ、カラスアゲハ、カブト虫、殿様バッタなどは珍重され、取ったこと、持っていることが誇らしかったものだ。偶然蝉、トンボ、蝶の羽化を見た時等、何か重大な秘密を知ってしまったかのように、怖れ、慄いたものだが、生命の誕生と終わりを深く考えもせず、今日まできてしまった。以前には赤トンボが一匹、二匹、三匹、飛び交い、何処から来たか、何処へ行くのかわからないながらも、初秋の風物詩として楽しむ余裕があった。

そんなことでほっとさせられたのだが、人間社会の現実は、厳しいものだ。かって日航機がHIJACKされ、人質を盾に、金と犯人GROUPの釈放を要求され、時の総理大臣は、超法規的措置を取り、犯人の要求を呑んだ。何か潮目が変わるのかなと思っていた。賛否両論があったが、次の言葉も気になった。「人の命は、地球より重い」。当時、高度成長経済の終焉を迎え、見直しを迫られていた。人命を掲げてカッコつけているようにも思え、地球を引き合いに出すなど 、安易でもあり、奢りさえ感じた。人間は、叡智、努力、合理性、都合により他の生物を利用しているに過ぎないし、地球の運営を託されたわけでもない。その後たびたび、中東などで興った人質事件の対応を見るにつけ、命の差を見せつけられた。人と同様、他の生物の命の差も人間が勝手に決めているに過ぎない。世界各国、人種、民族、個人にあっても種々の生物の命をいただいて、生きている。食物連鎖、地球環境に多大なる影響を与える場合は、考慮しなければならないが、食習慣、食文化の違いを理解し、それぞれの立場を尊重しなければならない。単に鯨を食するのが駄目で、牛、豚、羊等なら、良いということにもならないと思う。

幼い頃から、身近な虫や、生物の厳粛な生と死をみつめ、特に社会性の必要な人間が、それぞれの関係性を失ったり、遠ざけてきたことにより、諸問題が興っているような気がする。人の命の軽々しい切り捨ても、新自由主義の台頭による、格差が興り、自己責任論が横行し、価値の有無、必要か否か、仕事上のつきあい、仲間内であるか等、属性が優先され、尊重すべき珍種の個人個人を軽んじてきた結果なのではないだろうか。人は、原点を忘れてないと思うし、自分も珍種の一人として、構えずに虚心になれば、そばの止まり木に座ってくれるのではないかと思う。人として生まれてきたからには、まだまだ、周囲の人達と人生の哀感を共にし、過ごしていきたいと思う。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

伊藤武をフォローする
雑感
シェアする
伊藤武をフォローする
いとたけのブログ

コメント