労働生産性は、必ずしも人の価値基準にはならない?

先般、コメンテーターの方が「将来、人は働かなくてもいいようになる」等と語ったが、何故そうなるかについての言及はなかったと思う。多分、更に働き方改革が進んだり、多様性により、労働のあり方、位置付けが変わるという事なのかもしれない。

子供は、遊び、学ぶこと、大人は、病気その他、働けない人以外、働くのが当たり前である。誰しも疑問に思うことなく働き続けているが、様々の歪みにより、不都合が生じている。先ず、競争社会が激化し、他者より一歩先んじないと生き残るのが難しくなると同時に、必要以上に働いたり、生産する為に、環境破壊が進み、地球にそのつけが回ってきている。他の動物は、当面の食と生殖が満たされれば、他を必要以上に捕食しないし、天敵がおり、食物連鎖等バランス(balance)もよく、地球環境を特段、破壊することもなかった。然るに人間は、強迫観念に囚われ、生まれて来たからには「何かなさなければ」、「人の役に立たなければ」、「他の人より富や権力を蓄え、楽な暮らしをしたい」、「夢や希望を実現しなければ」等の思いから逃れられない。最早、他の動物がそうであるように、ただ生きるだけでは、許してもらえないのだろうか?むしろ今は、喧しく、生きる意味を問う時代ではないかもしれない。生きてるだけで、本人の為、人の為に十分役立っており、生き方、考え方の違いを認め、受け入れることが、穏やかに、豊かに生きられる時代につながるのではないだろうか。

歴史の過程に於いては、労働生産性の基、強者と弱者、支配者と被支配者がいたからこそ、搾取もあったが、進歩もあり、蓄積もでき、数々の文明が起こり、歴史的建造物・文化遺産が残り、現代人が多大な恩恵を受けたのは、間違いない。これからも、ある方向性の最小公倍数や最大公約数を求めて国と国民が擦り合わせをすることも必要だと思う。しかし、地球環境の持続性を鑑み、多様性社会の実現の為、ここらで労働生産性の有無によって人の価値を判断する事から脱したいものだ。しかも方向性が違い、価値観が異なったり、他者から認められる為に生きている訳でない人に対しても理解が届かないと、予期せぬ方向に国民を誘導しかねない気がする。今の時代は、国や社会が確固たる理念を示せないし、人間のあり方を説いても虚しくなる。勝手に生きて税金をたくさん払ってくださいと言っているようなもの。自分の意思で、個人が模索しながら生きているだけで、尊いことだと思う。

私は、幼少時代から、今日に至る迄、遊び、学び、仕事に対し、精一杯やったと言う達成感はない。集中力、能力が欠けていたのは勿論、一つの集団やコミュニティーに属していても、基本的に調和を乱さなかったが、どっぷり浸かるのが苦手で、 距離を置いていた。仕事でも、数字の出る営業の世界にいたせいで、結果を出してきたとは思うが、常に調整を考えていたのも事実である。いわゆる天邪鬼だったのかもしれない。勤めや自営の時代を含め、人参は意識したが、踊らせられることもなかったし、存在感が薄いながらも、自分なりに舟を漕いできた。今振り返ってみると、そんな姿勢の為、燃え尽きたり、虚しくなったりせずに、これまで続けて来れたのかなと思う。つまり人が50年かけてやる事を100年かけてやるみたいなことかも知れない。

時代が進むと同時に、不景気になり、企業のキャパシティー(capacity)も限界が見え、はみ出した人が将来に不安を覚え、フリーターへの流人が続いたので、大人達は、将来の年金財政に不安を覚え、危惧を感じた。その後、状況が一向に改善されず、現在に至っている。もっとも、年金財政を支える人も、支えられる人も、国や人を頼りに出来ない事を自覚しているようだ。これは、知らされず、突然奈落の底に落とされるより、まだマシである。しかも、各々、己の人生を、世間体や時代に左右される事なく、大事に生きている人も出てきた。敢えて労働生産性を上げずに、生きていける道を選んだり、一時的に?働かずに、生きている人もいる。個人の方が変わり身も早く、粘り強い。社会の最低限のモラルなり、コンセンサス(consensus)は必要と思うが、かってのように、国や統治組織が、概念を与え、漠然とした勝者を作り出す時代は終わった。高度資本主義、自由主義の悪弊も露見し地球規模の環境破壊が進み、その存続も問われている。個人が飼い殺しの時代から、せっかく自由に生きていける時代になったのに、時代に先駆けて、政治、行政機構が、個人という大衆を支える為の大胆な施策を打っていない。この度、コロナ禍に於ける、全所帯給付金で、苦しまぎれではあったが、初めて国民目線の政策がなされたと思う。お金を配ればいいわけではないが、もうそろそろ、上に予算を投入し、下に滴り落ちることを期待する政策を改め、国民の大半が支持する国民生活に焦点を当てる政策に舵を切るべきではないだろうか。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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