昔懐かしい下駄の音

2〜3日前、ゴミ捨てに行き、近所の人に、「下駄の音が、いいですね」と声かけられた。二言三言しか話さなかったが、久々に聞いた音が懐かしかったようだ。別れ際に、有難うございましたと言われた。サンダル(sandals)の備えがなくなり、朝か夜、近くのコンビニ(convenience store )へ行く時等に履いているが、アスファルト(asphalt)の道は、歩く度に音を立てるので、気になるものだ。近頃、街内では、下駄を履いている人を見かけなくなった。

かつて、お客様のお宅や職場を訪問するときは、白いシャツ(shirt)・スーツ(suits)にネクタイ(necktie)が、勤め人時代を含め30年以上、定番であった。いつしか、年齢や職種の所以で、特別の場合を除き、縦社会からも自由になった。カラー(colour)シャツ等、人が見れば、仕事かオフ(off)か解らないラフ(ruff)なナリをすることもある。スーツにしても、上下を換えることが多く、ネクタイをしない事が多い。気に入って買ったものが5〜60本以上ねむっているし、一度も使っていないお宝も3〜4本ある。見るたびに、懐かしくもあり、コレクション(correction)みたいなものだ。人には、紐っこに見えるかもしれないが、このまま、使う事がなくても後悔はしない。

毎日、家から店と近所の行きつけの喫茶に行く程度で、ワンパターン(one pattern)の行動半径ではあるが、退屈な日常等はない。しかし、何か非日常のことも、徐々に増やしていきたいと思っている。人は皆、何かを持っている。自分が、受動的であるが故に能動的な考え方、行動に刺激を受け、同じく受動的な人の中にも、尋ねれば、潜在している実存の意義を発見できる。人には、それぞれ、夢・趣味・好悪があり、環境と境遇の影響を受けながらも、生きる為に現実と妥協し、模索している事だろう。実像と虚像がないまぜになったり、どちらも実像の場合もある。偶然であれ、必然であれ、そんな人達とわだかまりなく、お話できるのは、有難い。中でも、仕事と余白のバランス(balance)が取れ、人生を謳歌している人は、羨ましい。

更に、子供から、老人に至るまで、最低限のモラル(moral)を守っていれば、自由で、干渉されないが、見捨られることもない社会が実現すれば、生きやすい世の中になることだろう。仕事以外の余白を楽しんだり、それが実人生であってもいい。多様性を容認できる社会が望ましい。皆んなが同じ方向に向かう社会は、息苦しいし、御免である。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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