行方不明者捜索

警察署の掲示板で、一般的な注意を喚起するPOSTERを見たが、GLOBAL社会到来を思わせ、ほとんど英語併記になっていた。又指名手配告知や高齢行方不明者の捜索協力依頼文書が目を引いた。

ある日突然、これまで普通に過ごしていた老人が、忽然いなくなる問題は、以前からTV番組等でも取り上げていたが、当時は、高齢化による社会現象の一つくらいに考え、見過ごしていた。今思うに、それは、動物本能への回帰かとさえ思えるのである。動物は、一般的に、子や卵で生まれるが、哺乳類は、一定の期間子育てをされ、以後、動物本能で生存競争を繰り広げる。群れで行動する場合も、病気等で動けなくなったら置き去られるか、自ずから群れを離れていく。人間がある意思をもって、失踪したり、拉致される場合を除き、認知症の症状や意識の混濁があり、行方不明になった時は、ただ単に物事がわからなくなっただけでは、ないのではないのか。一時的にでも意識が回復した時に、それこそ本能的に何かを察知し、隠れてしまったような気がしてならない。推測に過ぎないが、そうだとしたら、悲しすぎる。

以前、私が訪問したお客様の母親が、認知症を発症しており、いなくなり大騒ぎになった。二時間ほど必死で探して、見つかったが、SIZEの違う私の靴を履き、朧げながらもやってしまった事を知っているのか、悄然としていたような気がした。見つかって、ホットすると同時に、何とも言いようのない虚しさを覚えた事が思い出した。

時代を遡ると、小説「楢山節考」の如く姥捨の習俗があったのかもしれないが、基本的には、明治維新以降の日本では、老人が亡くなるのは、自宅か病院のどちらかだっが、近年、施設でも御世話するようになった。1970年以前には、拉致や家出人以外の行方不明者は、殆どいなかったと思う。まだ目に余る件数が発生している訳ではない。しかし結果として、時代による老人切り捨てに繋がっていると思う。

高齢化が進み、脳細胞の認知機能が壊れてしまう人も増えてくる一方、暮らしにくい時代になり、人間関係も希薄になり、家族、地域、自治体で、老人を繋ぎとめられなくなった。誰でも、そんな目にあう可能性もないとは限らない。先端科学・技術の発達と人類の進歩があったとしても、最後の砦は、地域社会の人、人、人だと思う。動物とは違う、一人では、生きられない人間をそれぞれが自覚して、濃密でないにしても、普段から見守る位の姿勢を保てれば、あらたなSAFETY NETとして機能し、行方不明者を減らせるかもしれない。人は、皆の役に立っていなくても、誰かの為に役立っている場合がある。長く生きてきたからには、いろいろな人達との関わり合いがあったはずだ。最後に行き着く先に、悲しい現実があるとしても、自他共に、人間の尊厳を保っていたいものである。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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