去りゆく季節を惜しむのを、歳のせいにしてはいけない!

日本列島では、特定の地域以外は、四季がはっきりしており、春夏秋冬が、約三ヶ月ずつある。最近、温暖化の影響か、春が、せいぜいニヶ月半、夏が三ヶ月半しかない。東京と会津若松を仕事の拠点にして、列島を行ったり来たりしているが、この差は大きい!会津でも昔から三寒四温があり、冬と春が行きつ戻りつして、なかなか春本番にならないのだが、特に最近は、冬、春、夏、秋が混在して、生き物すべてがびっくりしていることだろう。

四季には、それぞれ趣があり、精いっぱいの装いに忙しく、美しく、厳しくも、我々を楽しませてくれる。浅春。山の樹々が、殺風景な薄茶から薄紫に変わり、萌え出ずるエネルギーが満を持しているかのようだ。まんさくの白い花が散在する山野を通る時、いよいよ春遠からずを実感する。早春。蕗のとうが頭をもたげ、たらの芽、しおで(山のアスパラ)等、山菜が目白押し。それにつけても、かって、食した、やにが滲み出た、動物性蛋白質のような歯ごたえのある、たらの芽(もしかしたら、鬼タラ?)にお目にかかれないのは何故?又美味でさっぱりした、しおでは、幻になったのか。 やがて、山あいの里に桜が咲き、そこかしこの山際に、たなびいている山桜が微笑んでいるのを見ると心癒される。桃も咲き、百花繚乱の季を迎える。僅か3〜4年前までは、妻が、約40キロの、皮なしニシンを小樽から取り寄せ、酢、砂糖、醤油、酒をブレンドした秘伝のたれに漬け、何キロもの山椒の新芽を入れた「ニシンの山椒漬け」をお客様に差し上げた。感謝の気持ちが多くの方に伝わり、自分も酒飲みてえ!となった。茹でた、取れ立ての地竹(山間部に自生する細いたけのこ)に味噌をつけると、これまた絶品。ビールとの相性は、抜群だ。さつきの節に移り、西郷村の小高い崖などに、散見されたヤシオツツジに夢中になったのは20数年前。鮮やかな純白と濃いピンクの花びらは、質感もあり、別珍のようで、輝いて見えた。かくして、我が心の花になり、間近で見た感動は忘れられない。夏には、釣り鮎の塩焼きで、苔のほろ苦さの残る、味と香りを楽しんだ。秋。紅葉は、全山、紅葉より、燃える直前、朱の混じった、色とりどりの黄葉が好きだ。地元の、きのこ採り名人から、天然物の黒舞茸を10数キロ買い求め、美味しさと鮮度が失せぬ前に、お届け出来たのも約20年前。又、日本一の手打ち蕎麦は、必要量の蕎麦を食べ、天ぷら等が入る余地がないほど旨い。初冬。会津を訪れて、間もなく、薄っすらと雪化粧を施した猪苗代湖付近を通過している時、歓迎するかのように、白鳥が飛来し、未来に希望を抱いたことも、まざまざと思い出す。冬。イカ人参、こづゆ(ホタテをだし汁にした、人参、ゴボウ、椎茸、里芋など具だくさんの食材を煮込んだけんちん汁に似た、つゆもの)等、意外に新鮮な魚介類。これまたアルコールが、ちらつくのである。本来、酒飲みでない自分が酒を持ち出すのは、よくよくのことである。

一般的に、冬が去る時に未練はないが、あっと言う間に春が通り過ぎると、惜しむ気持ちになる。幼少青年時代には、めくるめく、賑わった夏を懐かしみ、秋には、来るべき、寒く厳しい季節の到来を、少しでも遅らせたい気持ちで、未練に思いつつも覚悟を強いられる。年を取ると、若い時より、時が経つのを早く感じると人は言う。確かに、人生の先が見えた段階では焦りもある。しかも、あきらめやデジャビュ体験、擬似、類似体験もあり、季節ごとの感動体験、初めての出会いも少なくなった。なんとなく時が移る寂しさともどかしさが過ぎ行く時を惜しむ気持ちを増幅させているのだろう。しかし、まだ捨てたものじゃないと思った。感動、わくわく体験を予感させることがあった。先日、地震、津波、原発で被災した浜通りのお客様と鮎釣りの話しになった。(去ること25年ほど前、約3年間、師匠について、挑戦したが、釣果も得られず、残念な思いだけが残った。解禁日の7月1日には何故か冷たい雨になり、長時間、忍耐を強いられた。師に習い、道具と衣装を整え、朝5時には、現場に入り、昼頃まで当たりがない。ラフななりをした若者が、すぐ隣に入り、次々釣りあげる。これって何?その後もはかばかしい成果を得られず、THE END。こんなはずじゃないの思いが残ったままであった。)彼は、60代半ばで、その話をする時は、目を輝かせ、楽しそうだ。趣味に生きている人は、羨ましい。「釣れなかった場所の石に苔がつき、色が変わったら、狙い目。鮎が動き、流され、自分も一緒に流されないと釣れない?」など名言の数々。時には、肩まで浸かって釣りをしていたが、今は、無理はしないと言う。釣り行を促され、かなり心に波風が立った。以前は、仕事の隣に遊びや、楽しみがあり、季節の移ろいを惜しんだりする間もなく、次の季節を迎え打っていたような気がする。無難に仕事をこなして「くうねるクラブ」で時を費やすのでは、何の為の人生だろうか。これからは、時を大事に、数々の忘れ物を拾いながら、季節をより精細に観察し、楽しむ積もり。その先には、至上の喜びが待っている。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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