ふるさとは遠きにありておもふもの?

自分には、故郷がない。

「ふるさとらしきもの」はあるのか?強いて言えば今も仕事を続けている会津。又、別の意味では、育んでくれた斎藤清版画の世界であろうか。

東京では目黒区、品川区、大田区と居を変え、30代半ばまでサラリーマン生活を漫然と続けていた。経済的には恵まれていたが、「失われた10年」を猛省し、転職の1年後独立せざるを得なかった。

当初、縁あって福島県各地の職場を訪ね、種々の絵画販売を行なっていた。当時、室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの…」、啄木の「ふるさとの訛り懐かし人ごみの中の停車場にそを聴きに行く」、牧水の「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」同じく牧水の「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」などの詩歌を深く鑑賞することもなく記憶に留め、ただ感傷に浸っていた。

その後斎藤清の木版画に出会い、しばらくしてから、会津若松に専門のギャラリーを設けることになる。長きにわたって寂しさを紛らすために、拠り所を求め、彷徨い続け、「ふるさとらしきもの」を切に求めていたのかもしれない。

最近、じぶんを含め、ふるさとを持てない人が多くなっているような気がする。安易に故郷を棄て、故郷からも冷たくされ相手にされない。ふるさとを持てないのは、他者が悪いのではない。本人の自己責任なのではないかと最近、気づいた。

近づけば良きところ、悪しきところが見えてくる。遠くから、時を経てながめれば、すべてが許せるし、懐かしく、いい面だけが見えてくる。

室生犀星は詩作等に苦悶し、故郷金沢と東京を行ったり来たりしたと言われている。「…遠きにありて…」は「近づき過ぎてやけどしたら、遠くから見てごらん」のメッセージかもしれない。真心をもって人に接し、己の感性で風物に寄り添えば、ふるさとは自ずから近づいてくるかもしれない。

日本人は「おもてなし」を売りにするほど素晴らしい人間性があるのだから裏切られるはずがない。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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