喫茶考で喫茶去

私は喫茶店が大好きで、毎日2時間ほど大切な時間を過ごしている。自分にとって切っても切れない居場所で、若い頃は唯一、自分が逃げ込める、世間から身を隠せる、自分を取り戻せる空間であった。それなのに建設的な事もせずに、詮無いことを考え、空理空論で堂々巡りをするなど、貴重な時間を空費していた。。今では豊かで贅沢な癒しの時間になっている。

二十代の頃、営業に出かけ、喫茶店のない街に行くと戸惑ってしまい、時間の過ごし方が分からず、途方にくれたものだった。「文化果つる所に来たもんだ!」の認識であった。通りかかった店には、ほとんど入った。一部の富裕層以外は、皆、余裕がなく、娯楽も少なく、喋ったり、休んだり、考えごとをするには、格好の場所であった。店内では、それぞれ住み分けができていたし、他人の迷惑になるような人は、ほとんどいないし、快適に過ごせた。

そんな喫茶店好きな者が、茶道に由来のある「喫茶去」と言う言葉に出会ってしまった。深い意味もわからぬまま、何か魅力的な語感さえ感じられた。斎藤清版画ギャラリーのオープンを間近に控えていたので、素晴らしい流木板 を見つけた時、何か特別の縁のように思えた。自然に削られ、時の経過を感じさせ、大きさ・色・形といい、申し分なく、「喫茶去」と書き入れてもらったら、さぞかし満足のいく作品になると確信した。少々値段が張ったが迷わず購入した。お客様のお兄さんの、力強くも、どこか枯れた書体を拝見していたこともあり、その板目に書いていただくよう依頼した。しかしその後2〜3年たっても出来上がらず、紛失したとのこと。気まずい想いを抱えたまま、問いただすことも出来ず疎遠になってしまった。以来心の中に空白を抱え、何か落ち着かない。

最近は、チエーン店のカフェが流行りで、その街に馴染んだ喫茶店が少なくなったのは寂しい限り。喫茶店に行くことは、何かを探し求めていた時代の忘れ物を再確認する義務のような時間にもなっている。今は明確な目的無しに余計なことをしない時代なのだろう。飲みに行く。カラオケに行く。食べに行く。ライブに行く。買い物に行くなど。多分、喫茶店に行ってどうするの?という捉え方であろうか。私が誘っても明らかに戸惑いを見せた方もいた。喫茶店は私にとって、間であり、余白である。時には熱く語り、人であることを実感し回帰する場所でもある。いつしか街の喫茶店に暇を楽しむ人が集い、それぞれに邪魔にならず、ゆったりとした時が流れるけしきを見てみたいものだ。ギャラリーでも、一意入魂した「喫茶去」と書いたものを飾れたら嬉しい。静かにお茶を呑んだり、お話もしたりして爽やかな気持ちでお帰りくださるように!

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