青山テルマの“そばにいるね”は、大人を寝かせるには、無理がある。

先頃、TVで青山テルマの歌が幼児のお昼寝に有効とのことで、早速、聴いてみたが、眠ることなど出来なかった。それもそのはずで、大人の恋や愛の歌で、切実さが溢れている歌詞であり、聴きながら話の筋を追ってしまい、眠るどころではなく、あらぬ方向に行ってしまった。自分の来し方を思いつつ、大いに反省させられたのである。

青山テルマの歌は、「ここにいるよ」「そばにいるね」「はなさないでよ」のJーPOP三部作で、ヒップポップMUSICのソルジャとの15分のコラボ作品で10年以上前にHITした。軽快で、甘美な歌声がRHYTHMICALに繰り返され、RAPが呼応して流れ、心地いいし、切なさも伝わってくる。全編に流れている歌詞は「 Baby boy  わたしは ここにいるよ  どこもいかずにまってるよ  You know dat I  love you だからこそ心配しなくていいんだよ    どんなに遠くにいても変わらないよこの心 言いたいことわかるでしょう? あなたの事まってるよ」ソルジャのRAPが相和し「あなたのこと  しまいまでも思い続けているよ  いくら時が流れて行こうと I‘m by your side baby いつでもSo、どんなに離れていようと 心の中ではいつも一緒にいるけど寂しいんだよ So baby please ただhurry back home」又ソルジャのRAPが流れ、「過ぎ去った時は戻せないけれど 近くにいた君が恋しいの  だけどあなたとの距離が遠くなる程に 忙しく見せていた  あたし逃げていたの  だけど目を閉じる時 眠ろうとする時  逃げ切れないよあなたの事  思い出しては一人泣いていたの 」等。更に思いのたけの心の叫びへと移行していく。映画、drama、歌等を見たり聞いたりした時、ほとんどの人は、自己を投影し、感情移入してしまい、自分をそのcharacterに当てはめてしまい、高揚感に浸ることが多いと思う。自分も例外なく、勝手に、妻の心のことば、叫びに置き換えて聴いていた。

思えば、遠くに来たものだ。時も流れてしまった。人目には、仲よさそうに見え、そう言われることもある。実際、出来る限りの時間を探し、何とか喜んでもらえないか腐心している。仕事がら、年に数回の出張があるし、遠隔地にもいるが、大半は一緒に過ごしており、表面上は、緩やかに過ごす、惰性ともみえる日常にも、大方、満足している。しかし、彼女は悶々としているのに違いない。ほのかな希望、期待、思いに応えては、いない気がする。元々性格、趣味、生き方が違う二人が、ひとつ屋根の下に暮らし、一定の制約のもと、自由にやって貰っているが、それは、自分の時間を作る為に、都合がいいからに過ぎないのではないか。何十年も共に過ごしたのだから、それぞれ好きなことをやるのもありかと思うが、自己完結型でない人もいるし、ほっとけないTYPEもいるのだ。当初は、違いがあり過ぎる人を珍重 し、相手が理解しなくても自分のことを夢中で話したし、一挙手一投足に興味を持ったものだ。あの情熱は、何処に行ってしまったのだろうか。確かに二人が何処にいようと、距離の問題ではない。日常の接点はいっぱいあるのに、何かが足りないのは、自分でも解っている。時は、待ってくれない。自分は、何時この世を去ろうと、素直に「ありがとう」と感謝できるが、彼女は言ってくれないのではないだろうか、今のままでは。それを言ってもらうために何かを心がけるのではない。一人の人間にかかわりをもち、拘束してしまった責任は重い。幸いなことに、二人は、まだ気は確かである。いっときでも今に至る源流のドキドキ感、わくわくかん等が蘇れば、これにこしたことはない。些細なことでも、自分が楽しみ、彼女も喜んでくれたら、充実した日々になり、嬉しいのだが。

この記事を書いた人
伊藤武

斎藤清の出生地、会津で斎藤清版画ギャラリー「イトー美術」を運営している、いとたけ こと伊藤武です。
http://itobi.sakura.ne.jp/

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